美空ひばりと現代技術

 

美空ひばりAI」。先日NHKで故・美空ひばりさんを復活させる試みが放送されていました。

 

内容は、死者である美空ひばりさんが歌う姿を歌声と映像で表現するというもの。

はじめ、プロデュースをした秋元康さんは、生前のイメージを勝手に作っていいものかと悩んだそうですが、「美空ひばりさんに会いたい」という関わる人の想いに賛同し、プロジェクトの成功に力を注ぐ決意をしました。


放送を見終わって、まず初めに感じたことは、やはりアートは偉大であるということ。言葉がわからなくても、背景を理解できなくても、直感的に感動を与えることができます。(放送を途中から見たため、制作の前段階のストーリーは理解していなかった。また、美空ひばりさんについて詳しいわけでもない。それにもかかわらず、深く感動したため前述のように感じた。)ちなみに今回発表された新曲は「あれから」でした。とても良い楽曲ですので、YouTubeでぜひ聞いてください!


一方の科学技術は、人々の生活をよりよくするだけにとどまらず、もう見ることも聞くことも触ることも出来ない死者をリアルに蘇らすことによって、人の心を揺さぶり感動させることができるんだ、ということに改めて気付かされました。ただ単に技術が先行し暴走してしまうのではなく、人間の想いを実現するために技術が上手く活用されるべきであることが、科学が加速度的に発達する現代において、我々が忘れてはいけない大事なリマインドであると強く感じました。


このように感じたのは、放送の中で美空ひばりさんが歌う姿を見て、涙を流しておられる方がたくさんいたからです。もう一度、彼女の歌声を聴きたいという人々の想いを乗せた現代技術が、みんなの願いを叶え幸せな空間を創り出している、そんな人間と科学の共存の未来がやってくることに期待したいです。そして、そんな未来の一端を担えるとしたらどんなに素敵なことだろうと思います。

 

The end

オタクの一端に触れる

 

こんにちは。この度は、先日初めてアイドルのコンサートに参加したことから、僕が感じたことを書きます。

 

僕が参加したのは、日韓合同で行われたオーディション番組を経て昨年活動を始めた、「IZ*ONE」というグループのコンサートです。きっかけは2か月弱前に大学の友人から誘われたことでした。名前は知ってるけど誰一人メンバーを知らなかった僕は、1万円のチケットと聞いて戸惑いましたが、友人の熱に押されて行く決意をしました。

 

それから友人に勧められた動画を見たり曲を聴いたりして、時間を探してはIZ*ONEについて「勉強」しました。というもの、そのグループの成り立ちが特異だったからです。韓国で有名なオーディション番組と日本のAKBグループが共同で行うプロジェクトを発端としており、「国民プロデューサー」と呼ばれる一般国民が一人一票を原則に毎週、人気投票をすることでサバイバルが繰り広げられます。そこで長期の間勝ち残った練習生がデビューの権利を勝ち取ります。僕は、それのすべての動画は長すぎてみませんでしたが、ダイジェストで大きな流れを追いました。他に、彼女たちが出演したテレビ番組や運営するメディアを見たりもしました。

 

こうして少しばかり勉強してから、僕はコンサートに臨みました。そうすることで分かったことがありました。アイドルなどのオタクは、アイドルのメンバーやグループの持つストーリーに共鳴しているからこそ、深く楽しんでいるということです。もちろんアイドルの顔や歌に惹かれて楽しむ人も一定数いると思いますが、それよりも、彼らが愛して止まないのはそのアイドルの歴史なのだと感じました。つまりは、その歌・歌手が好きなのではなくて、その歌手がどんな過去を過ごし、どんな想いで歌っているのか、そしてどんな未来を描いて活動しているのかを想像できるからこそ、オタクはオタクたるのではないでしょうか。

 

このように感じたのは、コンサート経験がほとんどないながらも、今回のコンサートで他のアイドルを視聴する時とは違った楽しみ方ができたからです。これまで歌手やアイドルグループを消費する時は、彼らの曲を聴くことに大きな比重をかけていました。だから、個人的に好みの曲やみんなが聞いている曲に偏った消費の仕方になっていた気がします。今回、グループの成り立ちを理解するなどして、少しでもメンバーの感情に想いを馳せることができた経験は、僕の音楽の消費行動に少なからず影響を与えるのではないかと思います。なぜなら、知らない曲でもその場にいて彼女たちが歌っているのを見るだけで不思議と飽きなかったから。そして、この経験は、なんとなく嫌悪感を抱いていたオタクの人たちへの理解を深めるきっかけになりました。なぜか心が軽くなった気がします。

 

そして、このストーリーに共感するという事象は、日常の消費のなかにも取り入れられていきそうです。つまりは、市場の商品は技術面などでの差別化が厳しくなり、またそちらへの価値を見出さず、その商品が持つ独自の世界観を消費する市場に移行するということです。例えば、同じ価格・大きさの2種類の玉ねぎがスーパーマーケットにあるとします。しかし片方には生産者の顔が表示され、その努力や商品に対する想いが書かれたポップがあります。あなたはどちらの商品を買うでしょうか。もし彼に共感できるとしたら、僕なら、確実に彼の玉ねぎを買います。こんな些細なことの延長線上に今回のアイドルの一件があったと思います。

 

だからこそ、僕はストーリーを持った人間でいたい。人間くさく、応援したくなるような、人を引き付ける人物になることが僕の目標です。

 

最後まで僕のつたない文章を読んでくれて、ありがとうございました。

 

end.

「グローバル」とは??

「グローバル」という英単語から「グローバル化」や「グローバル人材」が派生し、日本で普通に使われてから久しい。今回は、「グローバル」と「インターナショナル」の違いについて、友人がFacebookで上手く意見をまとめていたので、それを紹介しつつ、自分の意見を交えられたらと思う。

 

「グローバル」とは、「世界全体にわたるさま。地球規模の。」と辞書で紹介されている。つまり、「地球全体をひとつにする」という意味を包含しているように感じられる。「グローバル人材」だとかいうと、「英語が達者など国際的な経験を持ち、国際的に活躍できる素養を持つ人物」とふんわりとイメージするが、そんな狭義のものではないはずである。友人は、「グローバル」とは、「違いが生まれるところすべてを包括する状態」ではないかと考えているそうだ。性別、宗教、価値観、風俗、習慣、文化、、などのあらゆるファクター内での境界線を無くして、みんながひとまとめに共存する状態がグローバルの行き着くところではないのだろうか。

 

一方、「インターナショナル」は「国際間の。国際的。万国の。」と定義されており、その言葉には常に「国、ネイション」という概念が介在している。つまり、「"国家間の"交流が盛んな状態」というイメージ。友人は、ここに「グローバル」と「インターナショナル」のふたつが同じように思えて、全く違ったコンセプトを有していると論じていた。前者は初めから世界全体、地球を想像しており、後者は国という単位で交流する様を想像している。もう少しかみ砕いた表現をすると、前者は違いをなくす動き、後者は違いを認める動きと解釈できる、そのように私は考えた。

 

この文脈で考えると、企業の紹介で目立つ「ダイバーシティインクルージョン」という概念は、「グローバル」と似た方向性であると感じた。

 

ダイバーシティ(diversity)とは、国籍、性別、年齢、宗教、ライフスタイルなどに固執することなく多種多様な人材を積極的に採用したり、留職や兼業、パラレルキャリアといった数多くの知見や経験が得られる施策を推進してイントラパーソナル・ダイバーシティ(個人内多様性)を高める取り組みのこと。

インクルージョン(inclusion)とは、従業員一人ひとりの違いを価値あるものとして高く評価し、組織全体で包み込むように迎え入れ、個々の能力やスキル、経験、強みを最大限に活かすことのできる環境を提供すること。

 

それぞれ、個人間の違いを会社として同等に認めることを根底としており、そこには境界線は存在していない。様々な特徴を持った個人が尊重され、同じ機会が与えられて活躍できる環境を整えることを目的にしている。ここでいう「同等に認める」や「同じ機会」という点に、「グローバル」という単語に包含された「同一性」が重なると思う。

 

ここまで書いて少し頭が混乱してきたが、「グローバル」と「インターナショナル」という、一見似たふたつの英単語が持つ大きな違いについて、友人の考えと私の意見をまとめた。

 

end

人生の目標について

こんにちは。

 

この度は、「内向きな人生の目標」について、今考えていることを書き起こします。

 

僕の人生の目標は、「価値判断基準が自分の中にある人間になること」です。

つまり、他人のリアクションにかかわらず、自分の考えや意見をしっかりと持った、芯のある人のことです。ここで注意したいのは、他人の意見を全く聞き入れない、頑固な人物の話をしているのではないということ。そもそも、僕のいいところは、他人の意見や立場を尊重できる柔軟なマインドだと思っているので、そこは変わらず大切にしたいです。

しかし、この柔軟性にはデメリットもあると感じています。それは僕が「自分の意見を持てない」ことに表れています。思い返すと、小学校のころから、他人と対立することや間違うことをできるだけ避けてきた人生でした。グループの一員として認められることに多大な犠牲を払ってきた、そしてそれによってみじめな自分を保っていた、そんな自分にもやもやすることが最近多くなっています。他人の目が怖かった。。陰口が怖かった。。仲間はずれが怖かった。。とりわけ面白いわけでもない僕がグループの一員であり続けるには、求められた言動を”柔軟に演じる”ことが最適だと感じていました。

 

そして月日は流れ、僕は今大学4年です。人生や生き方について考える中で、留学等の海外での経験が大きく役立っていると感じます。

僕は留学当初、自分にある程度の自信がありました。英語も話せないわけではないし、シャイながら友人作りも何とかなると思っていました。けど、実際ヨーロッパに行ってみて、学生の会話についていけない、何について会話しているのか理解できない、理解できないがゆえに会話に参加できない、ということに落胆しました。英語を母国語としない学生がみんな流暢に話しているのを目の当たりにして、まずはリスニングを鍛えないと始まらない、そして考えていることを伝えないと興味を持たれない、と感じました。しかも、彼らは圧倒的に内省ができている。自分が好きなもの、嫌いなもの、したいこと、したくないことを明確に伝えることができます。それはひとえに、彼らが自分自身を知っているから。留学中に出会った、ゲイも、ヌーディストも、放浪するバンドウーマンも、みんな自分を理解して、自分を大切にして生きていました。一方の僕は自己紹介さえままならず、他人に合わせて生きることに精一杯です。

 

こんな違いをまざまざと見せつけられ、僕の中では、彼らみたいに自己をうまく表現できるようになりたいという気持ちが膨らみました。(そもそもほとんどの場合、表現できないと関心を持ってもらえない)彼らがこうして彼ら自身を発信できているのは、たくさんの”自分”に出会って、その中からしっくりくる自分に出会えたからだと思います。僕のすべきことは、まずいろいろチャレンジすることであり、そしてそこで失敗をすることが次の一歩の踏み台を創ります。いろんな”自分”を知って、そこで見つけた「好きな自分」でいられる時間を多く過ごすことが、幸せな人生をもたらすと思います。「好きな自分」、そこには他人が介在する余地はありません。他人軸から少しずつシフトして、自分軸で回る人生を生きていけたらと思います。そして、それの行き着く先が、僕の理想である「価値判断基準が自分にある、芯を持った人」です。

 

end

環境問題について

スターバックスのプラスチック製ストロー廃止」にまつわるニュースをワイドナショーで見ました。以前、ポッドキャストバイリンガルニュースで、プラスチック製品に対するEUの動きについての記事が紹介されており、その中でスターバックスが世界のリーディングカンパニーにも拘らずアクションを起こしていない、という話が丁度あったため、さすがスターバックス!と感心していました。今回は、そんな環境問題についてです。

 

僕自身、環境問題について大きな行動を起こしたことはないですが、日々環境のことを考えて行動するようにしています。そんな中少し驚いたことがありました。私は現在ドイツに留学しています。半月程前、いつものように牛乳のパックをつぶして嵩を減らして処分しようとしたとき、おそらくゴミ収集員の中年の強面のおじさんが「いいぞ!」と言ってくれました。大したことではないですが、ドイツ人の環境問題に対する意識の高さが垣間見えた瞬間でした。ドイツはいまやEU最大の経済規模を誇り、貿易の輸出入額では日本をしのぎます。そんな日本と大きく変わらない経済を持つドイツでは、日本よりはるかに先を行く環境対策が実施されています。例えば、スーパーマーケットではビニールバックはもらえず、マイバックを持参しなくてはなりません。(厳密には、マイバックを忘れた際は、しっかりとしたイケアバックのようなものか、紙袋を購入する必要があります)ペットボトルや缶、ビンの多くは飲み終わった後、スーパーマーケットなどで割引券に交換できるシステムが構築されていて、スタンダードになっています。そのため、それらゴミは「価値のあるゴミ」として考えることができ、ポイ捨てする人は少ないし、もしポイ捨てがあってもお金に換えたい人が街中で回収しています。(主にホームレスらしき人なので、治安の面からするといいこととは言い切れませんが)

 

僕がここで言いたいことは、日本が環境問題対策に遅れているからダメだ、ということではなく、個人個人の意識が大切である、ということです。日本ではドイツに比べて国民一人一人が環境問題に鈍感であるように感じます。ドイツのようなシステムを構築することも大事ですが、まず環境問題についてより敏感になることがもっと大切だと思います。システムが初めで、意識が変わっても問題はありませんが、意識が変わったらシステムはおのずと変わると思うからです。意識を改革するためには、自分たちの暮らしが環境に与える影響について知る機会を増やす必要があります。その点で、今回ワイドナショーでプラスチックの環境汚染のトピックが取り上げられていたことは、とてもいい流れだと感じたし、それについてテレビなどのメディアで議論することは大きな意味があると思いました。 みんなでもっと環境について考え、行動に起こせる未来が日本でも来たらいいなと思います。

 

end

 

 

エジル選手の代表引退を受けて

こんにちは。今日は食堂で10日ぶりくらいに再会した(2度目)ドイツ人の友人から聞いた興味深かった話をしたいと思います。

初めは、私が個人的に興味があった、昨日発表されたドイツサッカー代表のメスト・エジル選手の代表引退について、その友人に質問したことから会話は始まりました。エジル選手はドイツサッカー界のracismによってひどく傷つき、代表引退を決意したと自身のSNSで発表していたのですが、ドイツにそれほど激しい差別意識を持った人たちがいるとは、これまでの生活から感じられなかったため、詳しく経緯を知りたいと思いました。彼が言うに、ドイツでもベルリンはかなりliberalな地域で、南の田舎の地域では今でも人種差別意識がある、とのことでした。エジル選手は両親がトルコ人で遺伝的なルーツはトルコにあります。しかし、ドイツで育ち、教育を受け、サッカーをプレーしてきました。ですから彼は、ドイツに税金を払う普通のドイツ人としてこれまで暮らしてきました。

ワールドカップ直前、エジル選手ともう一人のトルコ系ドイツ代表選手は、独裁者として知られるトルコのエルドアン大統領と面会し、"Dear my president"というようなメッセージをユニフォームに書いて彼にプレゼントしたそうです。友人は、そのことが大きな波紋を呼び、もう一人のトルコ系ドイツ人選手は謝罪をしたのに、エジル選手は口を閉ざしたままだったことが、一つ大きな問題だと指摘していました。また、"my"ではなく"the"としていたらこんな問題にはならなかっただろうと。

 

確かにドイツ人からすると、トルコ系の国民が、ドイツで自由や優れた経済を享受しているにもかかわらず、自身のルーツを持つ国の大統領に対して、しかも独裁者として名高い人物に、忠誠とも取れる態度を示したことは無視できないことかもしれません。しかしエジル選手としては、自分はドイツとトルコの2つのheritagesがあり、「トルコの大統領」に会うことが重要でした。そこには政治的意味はないと繰り返し言っていて、好ましくない形で報道がなされていたことがうかがえます。一つ考えられることは、エジル選手がドイツにばかり傾倒して、トルコのことを無視するような形になると、トルコにいる親戚たちからよく思われない懸念があることです。それゆえ、トルコとのつながり、ルーツを忘れていないことを示す証拠が必要だったのかもしれません。

面会の写真の一連の騒ぎでエジル選手は精神的に酷く疲弊したことでしょう、ワールドカップでのパフォーマンスもいまいちで、またドイツのメディアの標的にされてしまいました。

今回の件は、一見、人種統合を他の国と比べると円滑に進めていた印象だったドイツに大きな影を落としました。ただここで問題であったのは、国民の差別意識というよりかは、メディアの報道であるように感じます。実際にドイツでは、戦争や差別の教育に力を入れていて、若者を中心に強い人種差別反対意識が備わっています。それに対し、今回の場合、一部の国内メディアはワールドカップ後の報道で、エジル選手のトルコのバックグラウンドやエルドアン大統領との写真を持ち出し、敗退を説明しようとしました。エジル選手は、「パフォーマンスを批判したわけでも、チームのパフォーマンスを批判したわけでもなく、自分のトルコ系のルーツを批判しているんだ」と嘆いていました。メディアは時として、受け取る人の意見を簡単に操作できる恐ろしいツールになりかねません。受け取る側のメディアリテラシーを高めることも大事ですが、そもそも、間違った、偏った報道が原因でこのような事態を招いたことは確かなので、そこを正していく必要があると思います。

 

end

 

22.07.2018

 

 

就職について

私は就職についてよくわかっていません。それもそのはず、調べていないからです。そして未だに自分のしたいことが決まっていません。6月にインターン情報が解禁され、同回の友達たちが一斉に就職活動のスタートを切りました。彼らが就職活動をしているところを見かけると気持ちがせきます。しかし、私は海外に留学中で、周りの情報も十分に得られず、その上したいことが決まっていないこともあり、全く手が付けられずにいます。

 

今日の帰り道、友達と就職活動について話をしていていろいろ気づくことがありました。それは、私はやりたいことがあって就職活動をしている同回生に嫉妬していること、そして自分は土俵にも立てていないということ、大学を4年で卒業しないという選択肢もなくはないということでした。一個目はそのままの意味で、二つ目は、まず調べて自分で就職について一定の知識を得なくては、何も始まらまいと感じたことです。一緒に留学に来た友達は、同じ境遇にありながらしっかりと「就職」を勉強していて感心しました。三つ目は、周りの友達が一斉に就職活動を始める中、大学生の本分であるべき「勉学」を疎かにしたまま「就職」という次のステップに進むことに違和感を感じたことが原因です。特に海外の大学生は、きっちり自分の学問を修めることをまず第一に考えているように感じます。逆に日本では、大学には入れたらそのあとはあまり勉強せず、気が付けば就職活動が始まり、みんな大慌てで準備に取り掛かります。しかしそれには原因になりうる日本と海外、とりわけ私が直接話を聞いたヨーロッパ、の違いがあり、それは、高校卒業後の過ごし方だと思います。日本では一般的に高校卒業後すぐに大学に進学するのに対し、ヨーロッパの国々では、高校と大学の間に1年から2年(聞いた話をもとにしています)海外旅行に出かけたり、仕事をする期間をとるのが一般的です。その間に得た経験や知識、新しい観点などが人生の方向性や勉学へのモチベーションを高めるのに役立っているのかもしれません。この点を踏まえて、私は、自分の仕事を決定するにあたって、大学4年間では十分な時間が得られないと思うようになりました。特に勉強をきちんとしたうえで、インターンなどを通して自分のやりたいこと向いていることを見つけることに無理があると考えます。